PAPAZAMEです。
読書が好きな私ですが、意識していることがあります。それは、「本に読まれていないか?」ということ。
学びのために読む本もあれば、シンプルに趣味として楽く読む時もあります。 読んだ後、すぐに次の本に行かず、その本のどこに共感したのか、どこに共感できなかったか自分で考えるようにしています。自分と本と、少し距離をとって、時間ととって、思い返しながら、自分の考えをまとめる感じですね。
本の魅力は、自分が経験していなかった、新しい考えや、空想を知れる悦びにあると思っています。一方で、自分自身を知る過程も、そこに含まれると思うんです。
今は村上春樹や沢木耕太郎の旅のエッセイを読むことにはまっているのですが、私ってちょっとハマると、その作者が書いた他の本はどんな本があるのかな?っと検索して、図書館でガーッっと借りてしまう癖があります。積ん読みたいになってしまうんですね。
実際には、積み上げずにきちんと読むのですが、どうしても図書館で借りると、返却の期限があるので、それまでに全部読まないとと意識してしまい、いつもより速読気味になります。それが続くと、本を読むのが作業みたいになってきて、どうも楽しくなくなってきます。
その時に、原点回帰できるのが、この本です。
学生の時に、たまたま書店で出会って、立ち読みした本です。
岩波文庫の本って、とっつきにくい印象がありませんか?当時の私はありました。多分、古典が多いことがその理由の一つかと思います。あとは文字が小さめだったり。
でもこの本は薄いんですよね。100ページくらいしかないです。ちょうど読書にハマり始めた頃で、タイトルが難しそうに見えなかったし、なんとなく手に取りました。そして内容に、非常に衝撃を受けました。
本書では、読書は思索の代用品にすぎない。読書とは、他人の脳を借りてものを考える作業であり、それ自体は自分の脳で考えることを遮るものであると説きます。つまり、その知識を得て、その上で自分で物事を考える思索に繋がらないと、もはや自分でものを考えない人間が出来上がると書いています。知識はあくまで知識に過ぎず、それを価値あるものに変換するのは、自分自身の思索であると。
その意味で、多読は害が多いと説きます。それよりも、少ない本でもしっかりと自分の頭で考えながら、咀嚼しながら精読する方が、はるかに価値的であると書いています。
この辺は、SNSの情報や新聞などの報道に対する姿勢としても、転用できる考えではないでしょうか。本当にその通りなのか、この発信の裏には、どんな意図があるのか、実は違う見方があるんじゃないか、と。
そして人生も同様と思っています。他の人が、普通とか、一般という内容は、本当に必要なことなのか。自分が求めていることなのか。自分で考えて、自分で行動し、そこに責任を持つ。人間として、これができれば、他のものは枝葉じゃないかなと思っています。
ちなみに、私なりの、思索のコツがいくつかあります。
ひとつは、思索の時間をつくること。例えば本の章と章の間に時間を置く、何か書き出してみる。実はこのブログもそれも理由で始めました。
そして、本を読まないことです。正確には、不要な本を読まないことです。ですので、本を選ぶときは、しっかりと選定することが大切です。
私は、よく、気になる本があれば、章立てを読みます。そして、あとがきを読みます。推理小説なんかではオチがわかってしまうのでやらないですが、本で著者が書きたかった主張は、あとがきで結構わかります。そこから、自分が学びたいもの、格闘したいものとして価値があるかを考えます。そうしたら、あとは最初の10ページ読んで、文体など自分が取り組めそうか、少し自分に馴染ませてみて、合わなければやめちゃいます。
古典はとっつきにくいですが、数百年もの間、世界で読み継がれてきた英知には、やはり人間の琴線に触れる言葉、鋭い洞察が溢れています。この本は100ページ程度で3つの章しかないのですが、特に最初の20ページほどしかない「思索」の章は、今も私のバイブルとして手元に残っています。おすすめです。
Thanks